暗く悲しい内容をお伝えすることご了承ください。
12月初旬に母の看病をするためイギリスから日本に一時帰国し母の支えになっていたつもりが、1月28日母は自ら命を絶ってしまいました。
結局、病名も、何が母の病状を悪化させていたのかわからないまま、母は耐えがたい苦痛と回復の希望を持てないことを苦にしの自殺でした。
母の死についてブログに書くことは不謹慎かもしれませんが、同じような病状に苦しんでいる人への情報共有、肉親を自死によって失った人への励みになればと思い書くことにしました。
母の不調が始まったのは2020年1月ぐらいだったそうで、深夜就寝中に激しい動悸で飛び起きて救急車で搬送されたそうです。
その後精密検査をしましたが、心臓には問題はないとのことで、心療内科を紹介され通院することになりました。
そこで「
デパス(
エチゾラム)」と言う
ベンゾジアゼピン系の
抗不安薬を処方されました。
この薬を飲み始めてから、泡状のネバついた唾液と涙が多く出始めたそうです。
医者に相談するも、「逆流性食道炎じゃないか?」「高齢者にはよくあることだ」など、薬の後遺症とは言われなかったそうです。
それ以外は問題なかったので、そのまま服用し続けていたのですが、7月ごろから激しい耳鳴りが始まり眠れなくなったそうです。
医者に相談すると、睡眠薬を処方されました。
耳鳴りの原因を診断してくれるわけでなく、ただの対処療法をされただけ。
睡眠薬を飲みだしてから、手足のしびれに悩ませれるようになったようです。
でも睡眠薬を飲まないと眠れないので、しかたなく飲んでのんでいました。
その後も、動悸、体が焼け付くような火照り、唾液が絶えず出てくるので、ティッシュペーパーでずっと拭くからか、口の中と唇が荒れて、食事も熱い物、味の濃い物が食べれなくなったそうです。
手足のしびれはひどくなり、痛みも伴うようになってきて、家事ができなくなるほど体調が悪くなっていったのですが、同居する父は6年前にヘルペス脳炎にかかり、重い後遺症が残り家事もできないし、認知障害があって母の不調も理解できない。
それでもできる限り手伝ってくれてたようです。
他の病気を発症しているのかもしれないと、内科や耳鼻咽喉科に行ったそうですが、胃カメラ飲まされたり、無呼吸症候群の検査装置を送られ自宅で検査したりとかしたそうですが、何の問題もないとの回答。
入院の相談もしたそうなのですが、全く取り合ってはもらえなかったそうです。
そんな状態だったのに、母は私に迷惑をかけたくないと、全く知らせてくれませんでした。
本当だったら7月に帰国するはずだったのに、コロナのせいで帰れなくなり、気づいてあげることができなかった。
そして11月下旬、もう限界だったようで、母から震える声で電話がかかってきました。
そしてイギリスのロックダウンが解除されてすぐの12月6日に帰国。
2週間は隔離の必要があったので、実家には帰らず宿泊施設で滞在。
その間も母は電話で「もう耐えられない」とずーっと訴えてきて、なんとかなだめていました。
そして2週間後実家に戻ると、家は埃だらけ、母は想像以上に病状が悪く、お風呂(シャワー)も5か月入れていなかったようです。
父もがんばって買い物には行ってくれていたみたいですが、料理もできないし、何を買っていいかもわからず、母はお茶漬け、コロッケ、冷や奴ばかりを食べる毎日だったそうです。
ここまでなるまで、なんで言ってくれなかったのか。。。
母の話から、きっと処方されている「
デパス(
エチゾラム)」の副作用ではないか?と。
いろいろこの薬に関して検索してたんですが、医者や薬剤師によっては、この薬は依存性が高く、長期処方するべきではない、特に高齢者へは注意が必要との記事をいくつか見つけました。
そして、イギリスでは4週間以上は処方されない薬だと言うことも聞きました。
私の母は病気知らずの健康体で、小柄で細い人、75歳の高齢で薬を飲みなれてなく、薬が合ってなかったんではないかと思います。
すでに長期間服用していたので、離脱症状がでる可能性が高く突然辞めるのは危険とのことで、そのまま服用してもらい、病院を変えるべく近所で口コミのいい別の心療内科を探しました。
帰国してすぐその病院に電話したのですが、コロナ禍の影響だろうかずっと予約が埋まっていて、空きがでたら連絡してくれるようお願いしました。
それまでは、自律神経専門の整体や、鍼灸院に連れて行ったり、栄養のあって食べやすい食事を作ってあげて、母の話を聞いてあげて、できる限りのことはしてあげました。
家事をしなくてもよくなったし、私が戻ってきたことで少しはマシになるのではないかと思ったのですが、母の病状はよくならず。
涙も止まらないので、字も読めない、テレビも見れないので、ずっと寝たきりで、つらそうな母の姿を見るのはとても辛かった。
でも、食事は取れていたので、とりあえずは大丈夫だと思った。
そして、その口コミのいい心療内科から電話がかかってきてやっと予約がとれて、1月25日行くことができました。
私にとっても母にとっても、この病院へ行けることは大きな希望だったのですが、期待とは大きく外れ、とても意地悪な先生で、まるで母が大げさに不調を訴えてるのではないか?という反応でした。
母がもともと通院していた病院の先生はベテランで、処方されている薬は適切なもので、母の症状も副作用ではない!ときっぱり言われました。
でも薬を飲みだしてからすぐ唾液や涙が多く出たので、薬の影響ではないのか、特に食事をしている時に涙が多く出てて、それを言うと、先生は「娘さん、お母さんの涙見たんですか?」って聞かれました。
全然母の言うことを信じてない言い草でした。
もしかしたら、母は薬恐怖症に陥ってるんではないか?
不安障害、もしくは
仮面うつじゃないか?など言われました。
母の不調は薬のせいだと思ってたのに、それを否定され途方に暮れてしまいました。
しかもその薬も依存状態に陥っていて辞めれない。
どうすればいいのか。。。
しかも薬恐怖所だったら、どうやって薬を変えていけるのか。。。
とりあえず、今すぐデパスの服用は止めれないので、それを服用しつつ、別の薬も処方してもらいました。
その日、その薬を飲んだのですが、その夜母はまったく眠れませんでした。
とても辛そうだったので、翌日はその薬をとるのをやめました。
その間も、私は「薬恐怖」や「仮面うつ」を検索して情報収集。
とある心療内科の先生の記事で、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬がきっかけで薬恐怖症に陥っている人の症例を見ました。
他にも母のような状態に陥っている人はいたみたいです。
とにかく薬への恐怖をとり除くよう、母には恐怖症に陥ってるだけで、不調は薬のせいじゃないんだと説明し、新しく処方してもらった薬に慣れるまでゆっくりのんでいこうねって、説得。
母も納得した様子だった。
そして、病院へ行ってから3日目の1月27日の夜、いつものように夕食をとり、私は仕事にもどるため21時部屋に戻った。
その後すぐ母が私の部屋にやってきて「仕事中ごめんね。くちびるの皮がいっぱい剥けて痛くて耐えられないねん」って訴えてきた。
私は「薬塗って、サランラップでパックしたらいいよ」とアドバイスだけし、そのまま仕事にとりかかった。
そして夜中0時半に、父が「お母さんがいない」ってあわてて言ってきた。
玄関には母が履いていたスリッパが脱ぎ捨てられていた。
ほぼ寝たきりの母が、こんな時間に何も言わずに出かけるわけもなく、すぐに「
自殺」の文字がよぎった。
すぐに父とマンションの周りを探すが、見つからない。
部屋に戻り警察に電話。
その時、テーブルの上に母の置手紙があるのを発見した。
「〇〇(私の名前)、ありがとう。
もうたえられない。ごめん」
絶望に泣き崩れてしまった。
早く母を探しださなければ。
警察が到着し捜索願を出し、そのまま夜通し近所を探した。
母はここ最近足のしびれがひどく、足を引きづって歩いていたので、遠くへは行けるはずがなく、近所の淀川、踏切、公園、神社、前住んでいたマンションなどずっと探し回った。
朝になっても見つからず、もうどこをどう探していいかわからず途方に暮れて。
少しでも多くの人に探してもらうべく、近所の知り合いにSNSで情報拡散してもらうようお願いした。
そして探偵事務所に行った。
探偵の捜索は高くて驚いたが、命にかかわることなのでお願いした。
お昼2時から捜索開始ということで、私はいったん家に戻り再度近所を捜索した。
そして2時半ごろ、探偵事務から連絡があり、淀川に母らしき人が浮いてると。。。
覚悟はしていたが、まさか最悪な結末になろうとは。。。
母はとても我慢強く、でも気が弱い人だったから、自殺なんてするはずがないと思ってた。
きっとどこかで途方に暮れてうずくまってるはずだって。
それからほどなくして警察から連絡があった。
父と警察に行き、調書のあと写真で遺体確認をした。
苦しかったはずなのに、母の顔は微笑んでるような安堵の表情だった。
やっと苦しみから逃れられてほっとしたのだろうか、それとも誰かからお迎えがあったのだろうか。
その母の表情だけが、少しの救いだった。
刑事さんの話によると、母は家とは違う対岸の淀川河川敷から約3メートルほどのところで浮いていたそうだ。
きっと河川敷から入水したのだろう、とのこと。
もちろん、淀川の方も探しに行ったが、私の家がある左岸は今大規模な工事で河川敷には入れないようになっていて、
工事現場の交通整理のお兄さんにも、母らしき人が通らなかったか?聞いてみたが、見てないとのことだったので、淀川ではないと思った。
まさか、橋を渡って対岸まで行っていたとは。
足もひきずっていたので、そんな遠くまで行ってるとは思わなかった。
死亡推定時刻は朝6時ごろとのこと。
母は6時間以上も、死場を探し彷徨っていたのか。
寒かっただろうに、しんどかっただろうに。
見つけてあげられなかった自分が腹立たしい。
まさか自殺してしまうなんて、そんなに辛かったなんて、私は母の本当の辛さをわかってあげれてなかった。
「耐えられない、つらい、もう限界やねん」って何度も訴えてたけど、私が戻ってきたから、家事も全部私がやってあげてたし、お風呂も入れてあげたし、栄養があって食べやすい物を食べさせてあげれたし、だから大丈夫だと思った。
あとは、理解のある医者が見つかればいいと思ってた。
最後に母が唇の痛みを訴えてきたとき、私が薬を塗ってあげてたら、母は自殺をためらってくれただろうか。
私に助けて欲しかったのに、私は、母の最期の訴えを軽く流してしまった。
母は、私が一生懸命母がよくなるようにがんばっているのに、一向に良くならない自分に苛立ちを感じていた。
とても申し訳なさそうにしていた。
いつも悲しげに「ありがとう」って言っていた。
お母さんのために親孝行できるなんて、なんの苦痛でもなかったのに。
元気になったら、猫カフェ連れて行ってあっげたかったのに、スーパー銭湯連れて行ってあげたかったのに、近所に新しくできたショッピングセンター連れて行ってあげたかったのに。。。
死んじゃったら、何もしてあげられないじゃないか。。。
母は病気知らずで、怖がりなので、ほとんど病院へ行ったことがなかった。
なのに薬手帳はぎっしりページが埋め尽くされ、数々の診察券が残っていた。
こんなにもたくさん救いの手を差し伸べていたのに、検査で問題がなかったからといって、ちゃんと診てもらえなかった。
明らかな身体症状があったのに。
1月初旬、母と一緒に、母が通院していた心療内科に行って、母が寝たきりになっていること、詳しい症状、私が海外から母の看病に戻ってきたことなどを伝えたのですが、結局同じ薬を処方されただけで、「なんでだろうね~?たまには心臓の検査もした方がいいよ~」っと、まるで原因は他にあるんじゃないの?みたいな回答をされました。
結局どの医者からも見捨てられたような感じで、親身になって診てくれる医者はいなかった。
そして母は死を選んだのだ。
医者から助けてもらえない、自分はもうよくならないんだ、と感じたのだろう。
そんな母がかわいそうで、かわいそうで。
怖がりで病院嫌いだったのに、こんなにたくさんの病院へ行って助けを求めていたのに。。。
別に長生きすることが、幸せだとは思わないが、こんな形で最期を迎えて欲しくなかった。
母の家系は、長生きで、祖父母とも老衰だった。
母の兄、姉も健在だ。
絶対に長生きすると思っていた。
私が定年したら日本に戻って一緒に暮らそうと思っていた。
苦労してきた母だったから、楽させてあげたかったのに、贅沢させてあげたかったのに。
どんなに悔やんでも、嘆いても母はもう戻ってこない。
前を向いて生きていくしかない。
私の願いは、母と同じような悲劇がおこらないよう、日本のメンタルケアが改善されることだ。
日本は世界的にみて異常に自殺が多い。
もちろん原因は1つではないが、日本のメンタルヘルス対策が大きく遅れていることが主な要因だと思う。
私の母はあきらかな身体症状があったにもかかわらず、検査してもどこも悪くないからと、まともに取り合ってもらえなかった。
そんなの医療じゃない。
なんでもかんでも数値で現れるわけじゃない。
精神安定剤や睡眠薬を処方されただけで、あとは放置されてしまった。
死にたくなんかなかったはずなのに。
母は1年に1回私が実家に戻ってくるのを、いつも楽しみにしてた。
いつも私が食べたいものを作って待っていてくれたのに。
もう私に会えなくなるのに、母は死を選ばざる負えないほど辛かったんだ。
どんな思いで川に入ったんだろうか。
凍てつく真冬の川に。
辛かっただろうに、怖かっただろうに、冷たかっただろうに。。。。
かわいそうに。
母が不憫でなりません。
日本の医療は、どうせ自己負担額が少ないからと高齢者に対して無駄に検査、薬を与えているように思えてしょうがない。
そして医者は儲かってしょうがない。
そして代替治療は高額すぎて、とてもじゃないけど通えない。
1件目行ったところは、ウェブサイトに書いていた値段は初診料で、次回からは高額に。
「ここを知った理由は?」「ウェブサイトのどの文言がきっかけで来院したのか?」とか、そんな質問ばかり。
ビジネスだな~っと思って通院するのやめた。
日本の医療はすばらしいと思ってたけど、今回のことで全く信用できないものになった。
コロナに関しても、なんでこんな少ない感染者で医療がひっ迫するのか?
もし、イギリス並みに感染者が出てたら、この国は崩壊してしまう。
先進国とは思えない現状だ。
これから、ちゃんと見直していってもらいたい。
母と同じような被害者を出さないようにして欲しい。
今は、母が苦しみから解放されて安らかに眠れるよう祈るばかりです。
母の生きた証として、写真をいくつか載せておきます。
若い頃の母
これも若い頃の母
父との結婚式
赤ちゃんの頃の私と
多分、小学校の入学式
飼ってた猫ミミと
2015年有馬温泉にて
最後に一緒に撮った写真
2019年4月 (前回帰国した時)
これが最後の写真になった。
もっと一緒に写真撮っとけばよかったな〜
可愛くって、優しかった母
真面目に頑張って生きていたんです
自ら命を絶ったことを罰されないように
無事天国へいけますように
お母さん、ありがとう。
もう苦しまなくていいからね。
安らかに眠ってね。